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※このテキストでは、原文のまま「打ち水」を「打水(うちみず)」と表記しています。
Text by Tadashi Miyata
※この文章は、「打ち水大作戦2004」の文章を再掲載したものです。
はじめに
地面を打つ水の音。日射しで輝く滴としっとりと濡れた路面。そしてどこからともなく聞こえてくる風鈴の音...。「打水」は今でも多くの人々に街の懐かしい風情と四季の情緒を感じさせる風景でありますが、最近では見かける事が少なくなりました。それはクーラーや舗装道路そしてマンションなどの高層住宅の普及により失われていった夏の風物詩なのかもしれません。
「打水」というと夏の暑さをやわらげたり、乾燥した地面を湿らせて埃がたたないようにする目的で行われているように思われがちですが、一昔前の日本においては打水は大事な礼節作法でもありました。日常生活において特に大事なお客が家に訪ねてくる時には、家中の掃除に加えて門の内外から玄関まで掃除と打水をするのが一般的で、お客に心地よく家に来ていただくという「もてなしの心」を意味する習慣でもあったのです。
何気ない「打水」という習慣ですが、そこには日本人の生活の知恵や清潔意識のみならず人生観の一端があらわれているとも言えるでしょう。「打水」を考える事で私達は昔から受け継がれてきた自分達の生活文化を知ることができるのかもしれません。
水と打水
人間の生活において欠くことのできない水は古代から命を意味する重要なものであったのと同時に、古代の宗教では病気災害などの災厄を「けがれ」として捉え、水にはその災厄を避ける力があるとして信仰されていました。日本人の場合特に水に対する信仰心は古来から強く、それは自然の恵みをもたらす水資源が豊富であったのと同時に水稲文化の普及によるものと考えられるでしょう。
日本で言う「みそぎ」という浄化の儀式は水をかけたり水に浸ったりするのが一般的でありましたが、その「清め」の儀式は宗教行為のみならず民間行事や儀礼などにも取り入れられて様々な習わしとして変化していきました。時代とともに水への信仰心というものは薄れて形式化したものの、祭などの行事において水の持つ古来からの「清め」の役割を今でも見ることができます。
また、もともと古代における水による「清め」の方法は海水でありました。昔は伊勢神宮に参詣する際に川の河口の海で体を清めてから参拝していたとも言われ、日本各地に残る海水みそぎの伝統も原始的な「清め」を起源にしていると思われます。この海水による「清め」が象徴的な意味合いも含めて簡略化し、水のみならず「塩による清め」にも変化していったという説が一般的です※。
※ 現代の「盛り塩」や相撲の土俵での塩などは、海水による浄化を起源とした「清め」の象徴的簡略化とも言えるでしょう。ただし「盛り塩」の場合、中国の故事に由来した「客の足をとめる」ための商売の縁起物という説もあります。現代でも日本料理のお店などでは盛り塩を見かけることがありますが、「客足をとめる」という縁起の意味と古来からの「清め」という意味が合わさったものと考えられます。
やがて仏教の伝播とともに日本の古来の宗教と仏教における「水による清め」の慣習が併存かつ混合し、独特な水への信仰文化や風習が形成されていきます。仏教においては水による浄化を重視し、仏教が普及するにつれて入浴や手洗いなどが貴族や上層階級などに規律や生活習慣として広がっていく一方で、内面におけるけがれの浄化も目的としながら水と結びついた加持祈祷や修行法も仏教などにおいて生み出されていきました。また、日本古来の民俗宗教においても水がもたらす稲作の豊穣への願いなどにより水神信仰や土着的な井戸神信仰が人々の間で定着し、水が精神的な存在として神聖視されていきました。
しかしながら仏教における宗教的な意味の入浴や手洗いという習慣は、日本の歴史の大部分においては上層階級に限られたものでありました。「清め」としての入浴などの習慣が一般庶民の生活へと普及したのは江戸時代と考えられていますが、水による「清め」の習慣から徐々に宗教的意味が薄れた「ハレの場としての入浴」や「生活規範」としての行為となり、江戸時代における都市文化の発展とともに武家社会の習慣が町人へ普及していったものと思われます※。
※ 現在のような「清潔感」を目的とした入浴が一般庶民の間で習慣化したのは、衛生観念が持ち込まれた明治時代を経て、近代風呂が各家庭に普及した大正時代以降のことでありました。
現代でも残っている「水による清め」として代表的な儀式は神社仏閣を参拝する際の「手水(ちょうず)」です。神聖な場所に入る前に手を洗い口をすすぐことでけがれをはらい、身を清めることを意味しています※。また「産湯(うぶゆ)」という習慣も「水による清め」から由来しています。生まれたばかりの乳児を水で清めて人生の門出とする儀式でありました。また、仏教では死後に体を湯でふき清める「湯灌(ゆかん)」という儀式がありますが、来世へ旅立つための清めを意味しています。
※ 茶道においても「手水」の作法がありますが、茶道の場合では蹲踞(つくばい)と呼ばれる背丈の低い手水鉢で清めます。蹲踞は身をかがめて使用することより、水によって清めることのみならず謙譲の気持ちを植え付けることを意味しています。
このように古くから日本では水には浄化する力があるとされて様々な習慣が生まれてきました。打水も本来はこの「清め」の意味が一部あったものと推測されます。水で門口や玄関を清めることにより、家に訪れる人々との関係を快いものにしたい、人々に心地よい気分で家に来てもらいたいという思いがあったのではないでしょうか。
茶道と打水
日本の礼儀作法の習慣や大衆文化に大きな影響を与えたのは茶道と言っても過言ではないでしょう。茶道をはじめとする礼儀作法が近世において規律として確立し一般庶民へと定着していきましたが、馴染み深い「正座」の仕方も茶道から由来していると言われています。茶道は礼儀作法のみならず他の日本の伝統文化にも影響を与えており、庭園のスタイル、建築様式や建具類、置物、花、畳、懐石、菓子、掛軸や床の間なども少なからず茶道文化の精神が反映されています。日本の建築様式には「数寄屋造り」と呼ばれるものがありますが、これもまた茶道文化から派生した言葉であり、その構造や手法が茶室風の建築様式のことを指しています。
お茶の文化はもともと中国から渡来したものでありますが、千利休などによって日本のお茶の文化が形成されていくにあたって、仏教の影響があったことを無視する事はできないでしょう。茶の書である南方録には「茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道する事なり」と書かれてありますが、お茶の文化には仏教特に禅の思想がその発展と精神形成において大きな影響を与えています。禅語に「茶禅一味(さぜんいちみ)」という言葉があるように茶は禅なしには成り立たないとまで考えられ、禅の修行僧の生活行動や振る舞いを細かく定めた生活規則がお茶の作法をかたちづくったとも言われています。江戸時代に茶の湯に精神規範的な道の思想がさらに付与されて「茶道」として確立し、都市文化の発展とともに武家社会から一般庶民へと茶道文化が普及していきましたが、ある意味お茶を通じて禅における仏教的な礼節精神が一般庶民へ浸透したとも言えるかもしれません。
茶道における礼節心は静粛なこころでお茶をいただき、人々の調和をはかってお互い敬うことがその基本となっています。一期一会(いちごいちえ)という言葉がありますが、これも元々はお茶に関係した禅語で「一生に一度の出会い」を意味しており、茶会において相手の人々に対し全身全霊をもって接するその心得をあらわした代表的な言葉として一般的に解釈されています。細かい礼節作法が取り決められた茶道では、打水もそのような茶道の精神性を意味する大事な作法となっていると言えるでしょう。
茶道ではその茶事の催しに先立ってお客を迎える30分ほど前に門の内外から玄関そして露地(茶庭)に打水をします。場合によっては数時間前から何度も水を打つこともあり、茶道における打水は夏冬関係なく行われます※1。 その目的として、塵埃を洗い流して茶の湯の環境を涼し気にしたり、門や露地の敷石を濡らすことによって風情を出すことを挙げることができますが、同時に打水は茶会の準備が整ったことをお客に知らせる暗黙の「しるし」も意味しています。そして打水には水による浄化としての「清め」の意味も含まれています。茶会の催される茶室は道場もしくは聖域とも言えますが、門から茶室に至る露地は言わば俗界と道場の境界であって世俗の塵を清める場所でもあります。門から露地にかけて打水をすることは聖なる場所への道を清めることでもあり、茶会に参加する人々が清廉なる心持でのぞみながらお互いに接するという意味でも大変重要な作法と言えるでしょう※2。
※1 茶道には「露地の三露」という言葉があります。お客を迎える前だけでなく、茶会の中立ちの時と茶会の終わりにさしかかった時にも打水することを言います。江戸時代の俳人である維然が茶会における打水を主題とした以下のような俳句を残しています。
「水さつと立はふわふわふうわふわ」
三露の打水によるやわらいだ空気と茶会における茶と人の交わりからかもし出された淡い風情を表現しているのでしょう。
※2 茶庭を意味する「露地」という語は法華経の「三界の火宅を出でて露地に住す」という言葉から由来しています。茶道の水による清めには打水のみならず、手水(ちょうず)という作法もあります。茶室に至る前に露地にある「蹲踞(つくばい)」と呼ばれる手水鉢の水で口と手を浄めなければなりません。
参考・露地の概要
茶室の露地は通常「内露地」と「外露地」に分かれています。茶室に近い方が内露地となっています。露地には飛石が置かれ、お客が進んでいく方向を誘導します。露地の中には複雑な渡(道順)になっている場合もありますが、お客が案内なしに正しい渡で茶室へ進む事ができるよう行ってはならない飛石の上に関守石(せきもりいし)を置いているのが普通です。内露地には「蹲踞(つくばい)」があり、ここでお客のみならず亭主も手と口を水で洗い清めます。露地を歩くことを「露地入り」と言いますが、昔より茶人の力量がこの「露地入り」における歩行の緩急や態度で現れると言われています。千利休は茶の湯は露地口を入る時から始まっているとも説いており、茶の湯においては門から茶室までの空間を非常に重要視していたのが理解できます。 |
打水の習慣
打水という習慣が日本においていつ頃から一般的に習慣として広まったのか。それを検証するための資料が数少ないのも事実ですが、涼をとったり土埃をおさえる生活の知恵として早くから庶民に定着していたのではないかと思われます。江戸時代の俳句においても打水が涼の手段として一般的であったことを示す作品がいくつかありますが、水に対する節約意識が強かった庶民の生活感覚を踏まえれば、食物や顔を洗った水を暑い時節には打水として二次使用していたであろうと容易に想像できます。また商業の隆盛とともに「商店」が増えはじめる頃には、店先に並んだ商品に埃がかぶらないよう日常において打水をすることは必然的に習慣化していったでしょう。
しかしながら、打水という習慣が日本人の間で一般化する過程には、涼の手段や塵埃をおさえるような合理性だけではなく、家に客を迎え入れるための「礼儀作法」として普及する段階があったものと推測されます。「礼儀作法」としての打水が世間一般へ広がった理由と時期を考えた場合、やはり武家貴族社会の影響を無視することはできず、武家貴族文化と町人文化が融合した江戸時代に注目せざるをえないでしょう(ただし、江戸時代より前に早くから武家貴族文化の影響を受けていた京都などの都市では、石畳の路面に風情を出したり礼儀作法として行う打水が早くから一般町民の間で普及していた可能性もあります)。
安土・桃山時代より茶の湯が武家階級に普及して茶の作法が武士達に広がり始めましたが、同時に小笠原流礼法も武家社会において武士の礼法として普及しはじめました。相手に対して恭順を意味する「正座」も武家階級に広まりましたが、その座り方は茶の湯から始まったと言われており、公家や宮中の人々そして神主(かんぬし)などが座る場合にはあぐらであったことを考えれば江戸時代には既に武家階級において独自の礼儀作法が確立されていたと言えるでしょう。
江戸時代においては政治が安定していて平和な時代であったこともあり、武家階級では遊芸としての書・茶・画・香・花・連歌などの催しが盛んに行われました。さらに京都の公家とのさまざまな文化交流が行われ、江戸中期には江戸に上流武家貴族文化が成立し、変容しながら独特な江戸武家文化を形成していくことになります。
江戸の武家屋敷の旗本御家人や大名の家族などは幼少時代から江戸で過ごし、江戸で成人しました。その成長の過程で彼等は公式な場での礼節や行動規範そして言葉遣いを身につけていきましたが、能会や茶会そして歌会などでの文化作法も同様に習得することとなり、それぞれのルーツが様々な地域であった江戸の武家社会の間に共通の武家文化が広く普及していきました。
江戸の有力町人や商人達は娘達をこのような武家に女中奉公に行かせることを望んでいました。それは娘達にとって良縁を得る機会であったのと同時に行儀見習いや高い教養を身につけることができたからですが、上流武家屋敷に奉公へ行く事がある種の流行現象にまでなったとも言われています。結果として多数の若い女性がそのような武家へ奉公へ行きながら教育を受け、彼女達が江戸商人や有力町人の主婦となり商業文化や町民文化を形成する上で重要な位置を占めることとなります※。
※ 日本の標準語は、東京の山の手を中心とした中流階級の言葉を元にしていると言われていますが、この地域は江戸時代には武家屋敷が並ぶ町でした。礼儀作法のみならず、武家階級に成立した江戸言葉が武家屋敷に出入りする町民によって広められて標準語として定着していったと考えられます。
おそらくこのような階級間での文化伝播によって、茶道や武家礼法をはじめとする多くの礼儀作法が一般町民へ普及していったものと考えられます。商人にとっては店前の塵埃をおさえる習慣にすぎなかった打水も、やがては茶道における打水のようにお客を気持ちよく迎え入れる意味も含んだ習慣として商人達へ広まっていったとも考えられます※。
※ 江戸末期には多くの江戸商人の間では既に現代のような「商い作法」が確立されていた模様です。慇懃なる態度でお客に接し、一銭の買物に対しても三拝九拝するような丁寧な対応をする商人の姿を記録した資料も残っており、江戸末期の江戸では広く礼儀作法というものが一般化していたものと思われます。
一般町民への礼儀作法の普及を考えた場合、その伝達経路を武家から町人への伝播によるものだけと限ることはできないでしょう。実際、江戸中期には町民の間でも茶や花などの芸能を趣味として学ぶ人々が大量にあらわれてくるのと同時に、芸能を不特定多数の人々に教えることを専門とする職業的な「師匠」も登場してきます。茶の世界においても新たに「煎茶道」が成立して積極的に一般町民への茶の普及を目指す人々もあらわれ、伝書の執筆や茶書の印刷も盛んになり様々な啓蒙活動が活発化します。江戸文化が隆盛してくる中で一般町民がさまざまな遊技芸能に触れることで礼節文化を身につけていったと考えることもできるでしょう。
明治維新以降、近代化の波の中で旧来の伝統芸能は衰退期を迎え、明治時代初期においては武家や町民の間で流行した遊芸文化の師匠にほとんど弟子がいなくなるような事態にまでなりました。しかしながら、危機感を抱いた遊技芸能は衰退から立ち直るために「行儀作法の習得」に役立つことを盛んに強調し、明治時代後半になると新興ブルジョワジーと呼ばれる人々を中心に伝統芸能に回帰し始めます。江戸時代の遊技芸能(特に茶道)は武士の男の世界を意味していた側面もありましたが、明治時代後期には婦女子の行儀作法習得のためにも重要視され、その文化の担い手として女性が大きな役割を持ちはじめました。そしてその女性達が学んだ礼節を各家庭で実践し、生活習慣として世間に定着させていったと考える事もできるでしょう。
このように、礼儀作法の普及と同じような経緯で作法としての打水も世間一般に習慣として広まっていったのではないでしょうか。そして涼みと土埃を抑える生活の知恵としての打水が、やがてお客を迎え入れる際の作法の意味も含んで一般的な習慣として根付いていくにあたり、一番大きな影響を与えたのは打水の作法を確立していた茶道ではなかったかと思われます。
近代化とともに道路も舗装され、室内の気温を下げる技術が登場して打水という習慣は徐々に失われていきましたが、ひょっとしたら失われていったのは人をもてなしてこころよい関係を築きたいという気遣いの心なのかもしれません。
参考・江戸から明治にいたる住宅環境の変化
江戸時代には大衆文化としての町民文化が成立しましたが、明治時代になると住居においても大衆的な変化があらわれはじめました。明治維新以降積極的に西洋文化の導入が進められたものの、住居面において西洋式の住宅をつくったのは一部の限られた富裕層にすぎませんでした。急増しはじめたホワイトカラーが実際に採用したのは江戸時代の中・下級武士の住宅様式で、床の間、玄関、障子、ふすま、障子、庭などが備わった数寄屋造りの家でした。さらに明治時代の住宅においては「縁側」が一般的になっていき、フォーマルな形で対応する必要のない訪問者と場を共有するスペースの様式が広がりはじめました。明治時代には武家社会の住文化とライフスタイルが一般大衆化していったとも言えるでしょう。 |
参考・江戸における都市行政
江戸時代において江戸は百万人ほどの人口を抱えながらも伝染病などが流行しませんでしたが、その理由の一つとして江戸幕府の都市行政を挙げることができるでしょう。神田上水や玉川上水に代表されるような上水道の整備が進み、十七世紀末までにはほぼ江戸の上水道が整備されましたが、幕府は江戸の生活を支える重要な水が汚染されないよう常に注意を払っていたようです。玉川上水での船の運航を禁止するなど上水の管理を徹底すると同時に、下水と上水が混じる事がないよう下水路の整備も進めました。必ずしも江戸の住民全てが上水道の恩恵を享受した訳ではありませんでしたが、江戸の発展は水道整備の成功があったからと言っても過言ではないでしょう。 |
打水と俳句
打水は昔から人々にとって情緒ある夏の風物詩であったようで、俳句の世界では江戸時代より現代に至るまでさまざまなかたちで打水が詠われてきました。また打水の俳句をとおして、時代を経ても変わらない情緒のみならず、場合によっては時代背景や世俗文化を垣間見ることもできます。ここでは江戸時代から現代にいたる打水に関する俳句をいくつかご紹介いたしましょう。
あれ程に打ちたる水も早乾く
池内たけし(1889~1974)*2
水打つて長屋づきあひなれにけり
森川曉水(1901~1976)*3
打水が近所とのコミュニケーションを深める機会でもあったことがわかります。
打水の拾ひ歩きや神楽坂
今井つる女(1897生まれ)*4
主客の座しつらへ終り水を打つ
犬伏康二*5
お客がいらっしゃる前に掃除をして迎えの準備をしたのでしょう。涼の意味とは違った打水を思い起こさせます。
水うつてそれより女将の貌(かお)となる
鈴木真砂女(1906生まれ)*6
日本料理屋や旅館でよくみかける光景かもしれません。
水うてば夕立くさき庭木かな
芝柏(江戸元禄時代の俳人)*7
水を打つと地面や石などから独特の匂いの空気がたちあがります。それは夕立ちの降りはじめに似ていることでしょう。
古庭や水打つ夕苔くさき
正岡子規(1867~1902)*8
水打て石燈籠の雫かな
正岡子規*9
「石燈籠」とは日本庭園や茶庭にある灯籠のことです。
梅雨晴間打水しある門を入る
高浜虚子*10
おそらく客人として訪問したのでしょう。お客を迎え入れる際の打水についての俳句と思われます。
打水を礼に軒端の金魚売
(江戸時代文化8年の作品)*11
暑い最中屋敷の軒で涼んでいる金魚売りが、礼に金魚桶の水で打水をしているのでしょう。
水うてや蝉も雀もぬるる程
其角(1661~1707)*12
武士町や四角四面に水を蒔く
一茶(1763~1827)*13
「四角四面」とはきまじめ、几帳面という意味です。武家の日常生活の作法が伝わってきます。
水をうつそれも銭なり江戸の町
一茶*14
商店でお客を呼び込むために水を撒いている様子を詠っているのでしょうか。それとも貴重な水を撒く江戸文化への揶揄でしょうか。
江戸時代には神田上水や玉川上水などが整備され、江戸の住民は上水道から分かれた暗渠水道井戸や通常の井戸を利用していましたが、深川や隅田川以東の地域では上水を利用できず、水屋と呼ばれる水を販売する者達から水を買っていました。水は桶二個分で四文前後だったようです。また、上水道や井戸を利用できる地域でも、長屋や店の間口の大きさに応じて水道料が決められ、借家人達は家賃の一部として水道代金を支払っていました。一茶は比較的多くの打水に関する俳句を残していますが、ことあるごとに江戸の風俗や習慣を皮肉まじりに詠った一茶の事を考えると、打水も一茶にとっては揶揄すべきものであったのかもしれません。ちなみに一茶は江戸の水と銭に関する俳句をいくつか残しています。
なでしこに二文が水を浴せけり *15
なでしこという草花に水をかけるのさえ銭がいるという諷刺の句でしょう。
町並みや雪とかすにも銭がいる *16
水や湯水で雪を溶かしているのでしょう。一茶にとっては水さえもお金で買わなければならないという事が江戸生活の象徴だったのかもしれません。
夕凪や行ったり来たり撒水車
田中田士英(1875~1943)*17
撒水車近づき昔遠ざかる
西村和子*18
ともに打水の句ではありませんが、明治時代より往来では水を撒いて塵埃をおさえる「撒水車」が通るようになっていました。明治時代にはまだ人が車を引いて水を撒いていたようですが、車による水撒きは欧米での都市衛生管理の知恵を参考にしているようです。
参考文献
『洗う風俗史』 落合茂著 未来社
『事典・日本人と水』 新人物往来社
『日本の風俗の謎』 樋口清之著 大和書房
ミツカン水の文化センター発行 『水の文化』
『日本の庭園・第四巻 茶の庭』 中村昌生著 講談社
『茶道入門ハンドブック』 田中仙翁著 三省堂
『角川茶道大辞典』 角川書店
『南方録』 岩波書店
『表千家』 千宗左著 主婦の友社
『お茶の道しるべ』 千宗興 主婦の友社
『茶味俳味』 黒田宗光 淡交社
『日本の風俗の謎』 樋口清之著 大和書房
『江戸学入門』 西山松之助著 筑摩書房
『江戸時代町人の生活』 田村栄太郎著 雄山閣出版
『江戸時代の遺産』 スーザン・B・ハンレー著 中央公論社
『史料による茶の湯の歴史(下)』 主婦の友社
『大江戸復元図鑑<庶民編>』 笹間良彦著 遊子館
『東京風俗史』 平山鏗二郎著 八坂書房
『大江戸開府四百年事情』 石川英輔著 講談社
『図説・茶庭のしくみ』 尼崎博正著 淡交社
『明治物売図聚』 三谷一馬著 立風書房
東京都水道歴史館編集 「東京水道の歴史」
※「打水と俳句」作品の出自・参照文献
1. 『虚子編改訂新歳時記』 三省堂
2. 『日本大歳時記・夏』 講談社
3. 『虚子編改訂新歳時記』 三省堂
4. 『日本大歳時記・夏』 講談社
5. 『新日本大歳時記・夏』 講談社
6. 『新日本大歳時記・夏』 講談社
7. 『古句を観る』 柴田宵曲著 岩波書店
8. 『子規句集』 岩波書店
9. 『子規句集』 岩波書店
10. 『虚子五句集』 岩波書店
11. 『川柳・雑俳からみた江戸庶民風俗』 鈴木勝忠著 雄山閣
12. 『増補俳諧歳時記栞草』 岩波書店
13. 『一茶俳句集』 岩波書店
14. 『一茶大事典』 矢羽勝幸著 大修館書店
15. 『日本古典全書小林一茶集』 朝日新聞
16. 『一茶大事典』 矢羽勝幸著 大修館書店
17. 『日本大歳時記・夏』 講談社
18. 『新日本大歳時記・夏』 講談社
水打つて風鈴いまだ鳴らぬなり
高浜虚子(1874~1959) *1